存在論的おかめ

日曜でお昼で空腹で買い出しが面倒なので、冷蔵庫にあった納豆でごはんを食っている。

納豆はいい。うまいしパスタにもメシにもよく馴染むし、台所から離れた食卓の上でも料理的可塑性があるところがいい。薬味を入れる・混ぜる・乗せるのパーミテーションカスタマイザビリティ。かの魯山人は調べれば調べるほど多分偏屈でむかつく嫌な爺さんだなという印象だが

「一般に有名なグルメ気取りの私の知見を以てしても、納豆はよくかき混ぜて食った方がうまいぞ」という趣旨の宣言をした点には一目置かざるをえない。確かによく混ぜた方がうまい。あいつは実は良い奴なのかもしれない。

 

すぐ食い終わった。すくない。目についた食料を全部カレーに入れてしまったので自業自得である。鍋がいい感じになる夜に期待しよう。

さても、確実にここ10年で最も納豆について思いを馳せながら食ったメシであった。

ぼんやり考えている内に そういや「下品にならない程度にかき混ぜる」なんて表現を聞いたことがあるナァなんてことが浮かんだが、一体あれはどういう了見で発せられる言葉であるのだろうか。

本当にかき混ぜ ”すぎる” ことで納豆は下品に変性するのか?これはまったく疑わしい。上下品納豆混ぜ関数や そこから導かれる最大許容混ぜ回数を客観的な変数で示す技術、あるいは長年の実体験を通じて手か目かで得られる経験知みたいなものがあるというのか?疑問は尽きない。

 

「それ自体は下品でない1混ぜ」が多数重なった時、突如として当該納豆の属性を「1混ぜ」ならざる全体性が取って代わり、しかも恐ろしいことにそれは一瞥して下品であると知覚する事が可能であり、そうなってしまった納豆はもはや不可逆に下品な外観を呈し続ける

 

という外宇宙的恐怖に溢れるおよそ正気でない主張が本当に広く膾炙しているのか?意外なパラドックス扱いなのか?本当は混ぜたお前自身が物体の変性を惹起するKeterクラスのSCPだったんじゃないのか?収監されてDクラス職員を下品にならない程度に混ぜていた方が幸せなんじゃないのか?

そもそもかき混ぜなければ下品にはならないのか?否定神学とか呼び声とかそういう話か?下品に至る道程を一本ドンとそこに置くことによって他の全てが一貫して上品なように見える効果があるのか?

 

それはあるかもしれない。

 

「納豆は混ぜすぎると下品になる」という悪い予言を食う前に発音することにより、それを”しない”自分が「悪い未来」を回避したことを想像して楽しむことができるのではないか?

これはよく考えると非常に効率がよろしい。楽しい想像というそこそこの結果を、脳内で不作為を一瞬よぎらせる という限りなく0に近い努力で割る。商は無限大に近い。やってみようとは思わないが、単に元々よく混ぜた納豆が好きじゃない人にはおすすめの趣味かもしれない。怪我もしないし時間もかからない。流石に初期投資はかかるが3パックで大体100円である。栄養もある。デメリットは偏屈でむかつく日曜に暇している嫌な奴にブログでエセ考察されるくらいしかない。

 

急に眠くなってきたので昼寝をする。

この予言遊びはおそらく想像の域から出さない(よく混ぜた状態を観測しない)事がエフィシェンシー最大化のコツであると思う。