開 設

 Twitterでは見づらいような長文はブログに書くことにした。理由はいろいろと考えながら以下に述べる。今は酔った拍子に高校の国語教科書に載っていた「誰もが読者やら著者になる時代になると頭がおかしくなってしぬぜ」みたいな文がぼんやり浮かんでいる。

 私には数年間隔で巣を離れ、新しいコミュニティに逃げるという性癖がある。例えば三年であったり数ヶ月であったりをかけて中々良好に築きあげた(大学入学後の私のリアルPvPにおける外観は不自然なほど優しく献身的で、誰にでも敬語で接し、一切後輩をいじめたりしない点でtの線に影響を受けない。言い換えれば、何年経っても固定されたままである)人間関係を爆破し、逃走する。爆破というのは唐突にバックレて二度と行かない、であるとか、加入していた団体の定例会中に当該団体の活動主旨に合わないような作業をやり始める等、破滅を誘う行動である。導かれる当然の帰結として恨まれたり、行動の豹変を怖がられたりする。優しいところでは、わざわざ時間を割いて何かあったのかと面談を行ってくれるサークルもあった。私はそれらを無限にはね退け、まだ見ぬ暗闇への跳躍を敢行してきた。それまで丁寧に慎重に対応してきたというのに、ある閾値を越えた瞬間、引っ越し前日に来た新聞勧誘のごとくどうでもよくなってしまうのだ。一夜にして性狷介にして自ら恃む所頗る厚く、というやつに豹変する。

 さて、そこにきてTwitterである。Twitterはいい。2009年終わり頃に友達と登録した。もう六年である。彼らはまだ友達だと思っていてくれているだろうか。周囲の振る舞いを見て「そういうもの」だと学び、そこからは早かった。一時期は頻繁に非客観的面白ツイートを飛ばし合い、むやみやたら近況を報告し、ネット上でフォローした50人以上とフワっとした関係を築いてきた。1回だけオフ会もした。今までの感じでいえば、とうに潮時である。爆破したいとも思ったことも何度かあった。ところが、この巣は今まで身を置いていたつながりとは違う点があり、それが私を繋ぎ留めた。それは、月並だがこの完全匿名でもなくリアルでもない妙な形態にある。まったく数ヶ月触れずともそんなに影響がなかったのだ。ある日つと思い立ち、一月も経った頃になんとなく戻ってきてつぶやいてしまったことがあるが、直後「お、◯◯君見るの久しぶり」というエアリプが来た。その味わった非常に新鮮な感覚が、エポックメイキングになってしまった。そのゆるい関係性を経験した時、SNSにおける爆破の欲求は失われた。そしてこの喪失が、私にこのブログを開設させるに至ったのだ。あーそろそろ集中力が切れかかっている。これって英訳すると第五文型かなァ、などと考えている。

  本題に戻る。これは口にするのもはばかられる話であるが、私は爆破しないまま続く関係性というものにめっちゃくちゃに不慣れである。全ての対人関係を、そのうち爆破するからという担保の上で行ってきたトレードオフである。本来の私は偏屈で不親切でニッチでアンフェアでナードだが、ゴールテープが見えるからこそ通常では考えられないような元気で走ることが出来るのだ。素を出しながら走り続けるスキルについては、その辺の中学生を無作為に30人、虫網のみで捕まえて比較した場合ですら負けているだろう。高校1年生でパソコン部、写真部、生徒会に加入して、三年間でその全てを爆破して恨まれつつ卒業したので、間違いない。私は、私にはTwitterを爆破する気がないと観測した。である以上、ゴールテープが見えない状態のまま注意深く発言していくべきなのだろうと思う。しかし、繰り返すがそんな状況にはまったく不慣れである。何をどう発言していいかわからない。ビビっている。

 ここ数ヶ月はリアルが多忙であるせいもあるが、発言回数が減った。タイムラインを見る作業は楽しいものであるから、人のツイートは毎日見ている。たまに毒にも薬にもならないと思ったツイートをそーっとする。何かちょっと真面目なツイートをしようとして、これ読むに値しねえな、とモヤモヤしてやめる。あるいは、書いちゃった後で消す。これが結構つまらないので、長文であったりセンシティブな話題に言及したりというモノはこのブログに書くことにした。逃避というか回避というか、問題の解決方針がAGI系である事は変化しなかった。そういえば高校時代はRMTで買った武器を引っさげてAGIマキシで鳴らしたものだ。あのゲームも面倒になって爆破した。名前は忘れてしまったが休日の夜になると一緒に天則をしてくれた覚醒オーラのピンは元気だろうか。

 結局のところ、逃げの一手である。今後も思考の吐露に際し、積極的に自らの価値観を試す事はしないという方針は、恐らく変わらないだろうと思っている。昔、児童に豚の名前をつけさせ、世話もさせて最終的に食わせる学校があるというニュースを読んだ事があるが、ああいう類型に私は耐えられそうにないのだ。例えば生きていく上で屠殺について考える機会は幾度もあるだろうが、強制的に、しかも逃げられない義務教育で考えさせられるというのは、耐えられる要素がない。

そんなものは私にとっておうちでベーコンをつまみにビールでも飲みながら、煙草が燃焼するまでの間だけ考えてすぐ寝るものなのだ。